ラブラドールと股関節形成不全
ラブラドール・レトリーバーは、多くの国々の多くの人たちによって愛育されているすばらしい犬種です。日本のラブラドール犬籍登録頭数は、平成14年3月現在で日本ケネルクラブと日本警察犬協会を合わせて、およそ76,400頭あまりです。登録されてないものを含めると、もっと多くのラブラドールが日本で飼育されています。
欧米でも、この犬種の年間犬籍登録頭数は、毎年上位を占め続けています。 世界各国でこんなに多くのラブラドールが愛育されていることを裏返せば、ラブラドールが、人間生活に一番深く関わっている犬種であるということでしょう。
実際に、ラブラドールは聡明、従順かつ献身的な特質を備えているので、盲導犬、介助犬そして聴導犬として、多くの障害のある人々の日常を支えています。また、人間の遠く及ばない優れた嗅覚を生かして、警察犬、災害救助犬、麻薬・爆薬捜査犬、まだ数はすくないもののガス漏れ探知犬として、大切な役割を果たしています。
もちろん、陽気で愛嬌者のラブラドールは、大多数が家庭犬として私たちと一緒に暮らしていますが、なかには審査会(展覧会)犬となって、純粋犬種保存と優良犬の普及に貢献しているものもいます。
ラブラドールが、世界で最も優れた万能犬とされる理由は、このあたりにあるのに違いありません。
では、いま生存している多くのラブラドールが、すべて幸せに暮らしているのでしょうか。その答えは、否です。なぜならば、少なからずのラブラドールが遺伝性の股関節形成不全に苦しんでいるからです。また、人間と不可分の関係にありながら、いまなお多くが劣悪な環境のもとで飼われていますし、そしてまた、心無い飼い主によって平然と遺棄されたりもしています。
愛犬家として、このような現実から目をそらすことは出来ません。股関節形成不全に罹ったラブラドールは、言葉で口にこそ出しませんが、私たちに、痛い、痛い、と訴え続けているのです。 以下、股関節形成不全の予防策について、知り得たことを記述してみますので、愛犬家の皆様にとって、遺伝性股関節形成不全撲滅の夢を紡ぐよすがにして頂ければ幸甚です。
これが、私の一番のお願いです。記述の中には、独りよがりがあったり、誤解や勘違いがあるかも知れませんが、その時は、素人の執筆に免じてどうかお許し下さい。
井上 千歳様ご寄稿
平成16年1月12日
【股関節形成不全という疾患について】
この疾患は、英語でHip Dysplasia 略してHDとよんでいます。HDは、最も一般的な、犬の遺伝性整形外科疾患です。概ね70%が遺伝性要素で先天的に発症し、残りの30%が肥満、運動過負荷などの後天的環境要因によるものと言われています。
重傷だと歩行困難になり、放置すれば寝たきりになる恐ろしい病気です。これは、ラブラドールにとっても、飼い主にとっても、生涯にわたる不幸な事態です。HDは、骨の異常に因るものですから、仔犬の発育と関係があります。多くの場合は、生後5〜10ヶ月ほどで発症するとされています。最近、乱繁殖や無計画な交配によって生まれてきた遺伝性HD症状のラブラドールや、ゴールデン・レトリバーをよく見かけます。
これらの犬が、人為的に羅患しているように思えてなりません。大変残念です。
【股関節形成不全の羅患率】
以前に、大学の獣医の先生から、この疾患に関するあらゆる研究資料を見せて頂きました。そして愕然としました。日本の盲導犬を除いた家庭犬ラブラドール群のHDに罹っている割合が46.7%だったのです。これは驚くほど高い比率です。私は、意外を通り越し、このままでは、将来大変なことになると危惧の念を抱かずにいられませんでした。
この愛らしい、そして素晴らしい犬種にとって由々しい問題なのです。私たちは、HDに罹ったラブラドールがこれ以上増え続けるのを、放置しておいて良いのでしょうか?
【先進国の股関節形成不全予防対策】
HDは遺伝性の病気です。従って、これを予防するには間違った繁殖【交配】をしないことが大切。つまり、遺伝性HDの犬を、牝にしろ、牡にしろ、繁殖に用いないことがHD予防の第一歩なのです。そこで以下、欧米先進国が取り組んでいるHD予防措置の一端を紹介します。いずれも権威ある評価機関のお墨付きを取得したラブラドールだけを交配させるよう指導しています。
@ 英国の取り組み
*英国には、「股関節形成不全改善計画」(BVA/KC-Scring scheme for control of hip dysplasia)という立派な事業があります。英国ケネルクラブから委託を受けた英国獣医師協会(BVA/KC)が、股関節のレントゲン写真を評価して、公認の「評価証明書」を発行。そして、その評価値(hip score)が、その犬種の平均値を下回っている犬だけを交配させるよう繁殖家を指導しています。
もうすこしくだいて説明します。つまり父犬、母犬とも、左右の股関節の評価値が16(ラブラドールの平均値、因にゴールデン・レトリバーは19)以下でなければ繁殖に用いてはいけないことになっているのです。
評価は、左股関節の9項目で53点、右股関節の9項目で53点合計106ポイントの採点方式をとっています。前述のように左右の合計が16ポイント以下でないと、繁殖適格のお墨付きを貰ったことにならないのです。
つまり、換言すれば、合計ポイントが「0」に近いほど理想的な股関節とされ、逆に「16」を超えて大きくなればなるほど、そのラブラドールはHD重症犬というわけです。 BVA/KCによる評価は、一生に一度しか受けられません。レントゲン写真の最適時期は、1歳半から2歳までです。
* 仔犬の「売買契約書」に、両親犬の股関節評価値明記し、さらに「評価値証明書」のコピーを添付するよう指導しています。このようにして、英国では、仔犬の受渡時に前もってHDが発症した場合の責任所在をはっきりさせておくのです。ですから、トラブルはあまりないようです。もしおきた時は契約条項に基づいて円満に解決される仕組みになっています。
*英国では、1951年に「ペット動物法」が制定され(1983年改正)、仔犬の展示販売が禁止されています。これはHDに罹るおそれのある仔犬の衝動買いをさせないための規則です。同時に飼い主に、愛犬が生涯を閉じるまでの終生飼養の責任を、きちんと意識して貰う為の配慮なのです。
ラブラドール原産地国イギリスでは、このように公認機関、繁殖者そして飼い主が一体となって犬質の向上に努力しています。日本でも、衝動買いをやめて、よく調べてから仔犬を買い求める様になれば、当然HD羅患率も下がる筈です。私たちも努力しましょう。
BVA資料:「犬の股関節形成不全」 (ジョン・フォスター著)
(上)正常な股関節。X線写真の骨格構造は鮮明で正常。大腿骨頭と寛骨臼はうまくはまっている。NA角度も正常。
(下)重症の股関節形成不全(Total hip score:98) 大腿骨頭/頚頭に骨増生が見られ、球形骨頭が変形している。明らかに異常。
A 米国の取り組み
米国には、次の3つの股関節評価機関があります
*OFA(全米動物整形外科基金)の評価
股関節レントゲン写真の評価は、「優秀」「良好」「かなり良い」「微妙」「軽度のHD」「中位のHD」そして「重症のHD」の7段階に分かれています。このうち「 優秀」「良好」「かなり良い」の評価を取得した犬だけが正常な股関節とされ、交配OKです。「軽度のHD」「中位のHD」「重症のHD」は、程度の差こそあれHDに罹っているのですから、繁殖に用いないのが常識です。「微妙」はX線フイルムの質の不良や、撮影角度不適切によるものなどで、どちらとも言えないグレーゾーンです。「軽度のHD」「中位のHD」「重症のHD」は、程度の差こそあれHDに罹っているのですから、繁殖に用いないのが常識です。「微妙」はX線フイルムの質の不良や、撮影角度不適切によるものなどで、どちらとも言えないグレーゾーンです。
*Penn HIP(ペンシルバニア大学股関節改善プログラム)
前記のBVA/KC(英)とOFA(米)は、股関節形成不全や関節炎そのものに重 点をおいた評価ですが、これに対してPenn HIPPは、関節のゆるみ具合(Joint laxity)から股関節を評価する方法です。つまり、関節炎発症以前の状態をレントゲン写真に撮り、統計学的手法を用いて評価するのです。これは、0〜1の百分位数を用いる、言ってみれば偏差値のようなもので、より客観的評価といえるかもしれません。レントゲン写真撮影は2歳まで、それを過ぎるとこの評価法は不適切とされます。日本にもPenn HIP評価にかかわっておられる獣医の先生が10数人おられるそうです。
*GDC(米国動物遺伝病撲滅団体)
米国では、OFAが最も多く採用されており、Penn HIPとGDCは、まだ少数派にと どまっています。説明は割愛します。
B北欧フィンランドの取り組み
フィンランド・ラブラドールクラブの繁殖委員会が発行する「ニュース・レター」は、 クラブの登録犬について、全ての股関節/肘関節形成不全および遺伝性疾患に関する情報を公開します。これによって、繁殖家はより健全な両親犬を選ぶことができ、股関節形成 不全などの発生を未然に防いでいるのです。思い切った素晴らしい取り組みだと感じざるを得ません。
【日本の現状】
前述のように日本のラブラドールのHD羅患率は、残念ながら欧米諸国に比べて非常に高
いと言えます。良い繁殖環境で、かなりなところまで羅患率を下げることができると分かっ
ているのですが、日本では、まだ欧米諸国並みの制度上のHD予防対策はとられていません
その結果、一般の飼い主は仔犬の歩き方などに異常が見られるようになって、初めてHD発
症に気づくのが現実のようです。これでは遅いのです。
近年、医療技術が進歩したおかげで、股関節形成不全は重症でなければ、手術で普通の生
活ができる程度までに回復するそうです。でも、これには多額の費用とたゆまないリハビリ
が求められます。大変なことなのです。
【股関節疾患を減らすために私たちができること】
@ 繁殖に際しては、HD発症のない、あるいは発症の少ない血統のライン(家系)を選
んで交配することが最も大切です。
A 愛犬の月齢が12ヶ月を過ぎた頃、レントゲン写真を英国や米国に送って前述のよう
な公認機関の評価を受けてみること。でも、もっと手っ取り早い方法があります。それ
は愛犬が年齢一歳半に達した頃、最寄りの獣医師にレントゲン写真を撮って貰った上で
HDの発症又はその潜在性の有無を診断して貰うことです。その結果、両親犬にHD発
症のおそれのないことを確かめた後で、交配させるのです。
B 仔犬の購入希望者は、仔犬の両親犬をよく調べ、そして実際に見た上で、過去にHD
の発症経験のないラインの仔犬を求めることが肝要です。
C HDに罹ったラブラドールの去勢と避妊手術を徹底することは、羅患率を下げるため
に是非必要です。日本でもこのことは、「動物の愛護および管理に関する法律」の20
条によって、飼い主に義務付けられています。
D ラブラドールの仔犬は、本当に愛らしいです。だからといって、縫いぐるみのペット
感覚で衝動買いしないで下さい。心ない飼い主に見放され、股関節形成不全に罹ったラ
ブラドールが、路上をさまよっているのを想像しただけでも胸が痛みます。これは悲惨
です。前記の法律27条は、愛護動物の遺棄を厳に禁じています。違反をすると30万
円以下の罰金に処せられます。
いろいろ書きましたが要約すれば、股関節形成不全に罹っているラブラドールを繁殖に用いないことが、最も有効なHD予防対策だということになります。
日本でも、関係機関による適切かつ制度的繁殖指導が、早く実施されるよう望まれます。
そして、飼い主の皆さんの間にHD予防の気運が、もっともっと盛り上がってゆけば、可哀相な話題や悲惨なテレビニュースは、だんだんと減ってゆくでしょう。
皆さんが、健全な愛犬ラブラドールと共に充実した日々を過ごされますよう、そして、楽しい思い出をたくさん残されますよう、祈ってやみません。
Japan Animal Hereditary Diseases Network
2003年夏、麻布大学の先生方によって、NPO法人「日本動物遺伝病ネットワーク」が発足しました。
この法人は、犬の股関節形成不全などの遺伝病疾患の診断と、情報収集・提供を主目的とする民間非営利組織です。是非、インターネットでそのウェブサイトを訪ねてみて下さい。そのURLは、http://www.jahd.org/です。
HDの羅患率を下げるには、まず有益な情報を得ることが先決です。きっと、有能な専門家の先生方に相談に乗って頂けるでしょう。
股関節のレントゲン写真の診断・評価にも応じて頂ける筈です。
【 補 筆 】
@ 股関節形成不全初期の外見症状
HDは、シェパード、ラブラドール、ゴールデンなど大・中型犬によくみられる病気です。愛すべき仔犬が、モンローウオーク( 極端に腰を振って歩く )をしたり、後ろ足のどちらかを浮かすように歩いたり、座り方が気になったり、あるいは、立ち上がるのにやたらと時間がかかるのは赤信号です。この様な異常は、早ければ三ヶ月ぐらいから目立ってきます。こんな時はHDの可能性が少なくないのです。放置しておけば、子犬の成長とともに、だんだん股関節の変形が進行し、動くのがとても苦痛になってくるのです。獣医の先生に出来るだけ早く検査してもらいましょう。
A 股関節 (Hip joint) の役割
犬は、上体(首部と胴部)を前後4本の足で支えながら歩き、走ります。股関節は、そのとき胴部の基盤となる腰部と後ろ足を結びつけ、その犬が体重の4割を支えながら、力強く前進跳躍 (STRETCH & DRIVE) するために、重要な役割を果たします。このように、股関節は犬が歩いたり走ったりするのに、欠かすことの出来ない後ろ足の自由な動きを可能にしているのです。
B 股関節の構造と形成不全
健康な股関節は、ほぼ球状の大腿骨頭 (Femoral head) と、これを被って収める寛骨臼 (Acetabulum 別名 Cap) よりなる球形関節です。これは三次元の広い可動域をもっていて、大きな荷重に耐え得るようにできています。
骨盤 (Pelvis) は、腸骨と座骨と恥骨と、その三つが寄り合う中心の寛骨臼骨の4つで出来ています。
仔犬の成長過程で、その「寛骨臼」と「大腿骨頭」の形成のしかた、はまり方に問題が生じるのが「股関節形成不全」なのです。
C 股関節形成不全のメカニズム
* 股関節などの関節は、骨と筋肉が微妙なバランスを保ちながら成長してゆきます。ことに中・大型犬の場合は、成長期の成長の度合いがすさまじく、なんらかの理由で、骨と筋肉の成長バランスが崩れることがあります。そうなると、骨の成長スピードに筋肉の成長が追いつかなくなり、股関節に「ゆるみ」が生じてきます。
* 股関節がゆるむと「大腿骨頭」の動きで「寛骨臼」の縁がだんだんと破壊され、「寛骨臼」は、お皿のように浅くなります。これが「変形関節炎」です。
そうなれば、「寛骨臼」に対応する「大腿骨頭」の外形も、球形からお皿を伏せような形になります。そしてその変形した「大腿骨頭」の角が「寛骨臼」の内部を傷つけ、変形関節炎はさらに進行してゆくのです。
* 大・中型犬で体重が重い分、股関節への負担も大きく、変形がひどくなり、痛みも増大し、益々動きが悪くなります。放っておくと年とともに歩けなくなり、やがて寝たきりになるのです。本当に難儀な病気です。
D 股関節形成不全の原因
はっきりした原因は不明ですが、これまでの研究で、遺伝性疾患であることが認められています。この病気に罹っている両親犬の間に生まれた仔犬のほとんどが発症します。しかし、遺伝だけが全てではありません。次項の留意点をご参照下さい。
E HD発症予防の飼育管理
(繁殖) HDの遺伝的素因を持たない犬を選ぶこと、そしてHDの遺伝的素因を 持った犬を交配させないこと。これが一番大切です。
(食事) カルシウムなどのミネラルやタンパク質を過度に含んだ食べ物を与え続 けると、骨と筋肉の成長バランスが崩れやすくなります。ですから給餌は 仔犬の成長段階に合わせた良質のフードにしたほうが良いと思われます。
(運動) 骨格形成途上の仔犬の成長期には、フリスビーやアジリティーといった 急回転やジャンプなどの、股関節に負担のかかる運動をさせないようにし ましょう。時期が来れば、いくらでも遊んでやれるのです。それまでは我 慢しましょう。 また、目安として一歳になるまでは、全力疾走などの過激な運動は避ける べきでしょう。とはいっても、筋肉の適度な発達が不可欠なので、無理の ない範囲で散歩や運動を行うことが大切です。
【補筆】参考文献:【犬の健康大辞典】’YOMIURI Pet Magazin,Feb.2003’